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コラム「読んでみて」

季刊発行の丸信スマイル通信にて掲載している、私、竹腰のコラムです。
季節のことや時事について、建築についてなどを綴っています。
よろしければどうぞ「読んでみて」ください。

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2017冬

新年明けましておめでとうございます。
昨年中は大変お世話になり誠にありがとうございました。本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
昨年は、アメリカの次期大統領にトランプ氏が決まり、イギリスがEU脱退を決めて首相が代わり、お隣韓国でも朴大統領の弾劾など、激しく国際情勢が揺れ動いた年でした。今年は、新大統領就任など、昨年決まったことが現実になる年ですが、どの国も貧富の格差が圧倒的に大きくなってきて、保護主義的な意見が強くなって多数派になってくると、寛容さというかおおらかさがなくなってきてるようです。戦前がどんな雰囲気だったかは、戦後生まれの者にはわかりませんが、各国が排他的というかナショナリズムが強くなり過ぎるとちょっと危険な感じがしますね。
北朝鮮のような、何をしでかすかわからないような国がすぐそばに存在してますし、ISなどのテロもあり、指導者の考え一つで周辺事態が急変してしまいます。また冷戦時代や戦前の状況にならないことを祈るのみです。今回は、戦争に関連してますが、いかにもりっぱな軍人さんをコラムで知りましたので、是非ご紹介したいと思います。年配の方はきっとご存知かもしれませんね。


台湾本土から西に約270キロ離れた海域に浮かぶ金門島という島をご存知でしょうか。
福建・廈門(アモイ)からわずか数キロという目と鼻の先にあるこの島、実は台湾領なのです。
この金門島が台湾領であることと、現在台湾が台湾であることは歴史を振り返ると深く関係しています。そして、そこには一人の日本人の知られざる活躍がありました。

根本博陸軍中将。当時、敵をして「戦神」と言わしめたその人です。根本氏は明治24年に生まれずっと陸軍畑を歩み続けた人ですが、まず紹介として戦後のお話をします。終戦当時根本中将は軍司令官としてモンゴルにいたのですが、8月15日敗戦をもって武装解除せよとの命令が届けられます。しかし、当時のソ連軍、中国軍の横暴さを知っていた根本中将は民間人保護のためその命令を拒否し「理由のいかんを問わず陣地に侵入するソ連軍は断固これを撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と命令を発します。この頑強な抵抗により4万人の居留邦人を無事日本に帰還させ、その後北京まで退き、そこでは当時の国民党軍トップ蒋介石と面談し、
北京周辺の実に35万人もの在留邦人の祖国帰還への約束を取り付けます。その際、根本中将は
蒋介石の協力に感謝し「東亜の平和のため、そして閣下のために私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と約束したそうです。

すべてを終えた根本中将は昭和21年に帰国しますが、その3年後、蒋介石との約束を果たしています。というのも、中国では国共内戦が激化、共産党軍の圧倒的勝利により、国民党軍は台湾まで追いやられ、そこを拠点とし、福建省で共産党軍との戦いを繰り広げていたのです。台湾からの支援要請に根本中将は小さな釣り船で命を落としそうになりながら台湾に入ります。台湾に渡った根本中将は蒋介石より依頼を受け、福建省周辺を視察し即座に廈門(アモイ)を放棄し、
金門島を死守すべしとの提案を行ないます。「戦神」と呼ばれた根本中将の判断に狂いはなく、
敗戦続きであった国民党軍は金門島で共産党軍の戦意を挫くほどの大勝利を収め共産党軍を二度と金門島、台湾本島に入れませんでした。金門島の住民、そして蒋介石は根本中将に何度も何度も謝意を述べたそうです。

台湾に渡り、3年後に飛行機で帰国した根本中将ですが、まるで漫画のようなエピソードが伝わっています。それは、いざ台湾に渡るとき根本氏は家人に「釣りに行ってくる」といって家を出たそうですが、羽田のタラップに降り立つ根本中将の手には家を出るときに持っていた釣竿が握られていたそうです。このお話、詳しく知りたい方は、門田隆将氏の「この命、義に捧ぐ」という本を読んでみてください。


以上です。
昨年四月の春季号でご紹介いたしました、「聖将」と呼ばれた今村均陸軍大将といい、今回の「戦神」と呼ばれた根本博陸軍中将といい、いかにも同じ日本人として誇らしい話というか人物です。是非、映画かテレビのドラマでやってほしいですね。もっとくわしく紹介された記事がありましたので、別紙で掲載させていただきましたのでご一読ください。
それでは、今年が、地震や集中豪雨などの災害もなく、テロもなく戦争もなく、日本だけでなくすべての国が平和でありますことをお祈りしたいと思います。寒さ厳しき折、ご自愛ください。

『昼行灯と呼ばれた男』

 その男は1949年6月、いつものように釣りに出かけたまま忽然と姿を消し、帰宅しなかった。そして1952年6月、突如として羽田に降り立ったその男は、3年間一体何をしていたのか、ほとんど家族にも語らないまま、1966年に逝った。根本博という。終戦時には駐蒙古軍司令官で、陸軍中将だった。
 戦前は、上官から昼行灯(ひるあんどん)と揶揄されていた。死後、実はあの3年間に、台湾軍(国民党)の軍事顧問として台湾に密航・参戦し、金門島で中国人民解放軍を撃破していたことが明らかになった。その話だ。謎は深い。だから事実だけを書き、評価は読者に委ねたい。
 1945年8月、満州、南樺太、千島列島へ不可侵条約を破って越境侵攻をしてきたソ連軍は、根本が管掌していた蒙古にも襲来した。その数4万2000人。戦車・装甲車400両。迫撃砲など600門。これに八路軍(中国共産軍)が共同戦線を取った。満州ではすでに悲惨な状況が繰り広げられていた。大本営の停戦命令をまともに遵守した関東軍は(一部には、徹底抗戦を主張する者もいたが)、事実上、邦人居留民を見捨てる結果になり、多くの悲劇を生み出した。その惨状はすでに駐蒙古軍の根本にも知らされていた。
 根本は、張家口を中心に居留する4万人の日本人を前に、停戦命令を無視した。南樺太や千島で、樋口季一郎第五方面軍司令官と同様、「徹底抗戦」を下したのだ。指揮下の動員可能兵士はわずか5000人。「理由ノ如何ヲ問ハズ、陣地二侵入スルソ連軍ハ断乎之ヲ撃滅スベシ。コレニ対スル責任ハ一切司令官ガ負フ。」南樺太や千島(占守島)と同様、ここでも「8月15日からの戦争」が繰り広げられることになった。
 根本は、戦犯に問われれば、自分一人が腹を切ればよい、という覚悟だったようだ。この覚悟は、「徹底抗戦命令」によって前線にも伝わった。はるかに劣勢にもかかわらず、士気が猛然と湧き上がったという。満州の二の舞にはさせない、ということだろう。昼行灯と呼ばれながらも、
 この根本の判断は見事だった。しかし、最前線の丸一陣地を守った独立混成第二旅団(響兵団、辻田新太郎参謀の直接指揮)の死闘は想像を絶する。
 19日から始まった戦闘は、三方から突撃してくる敵に対して、銃剣や日本刀を振るう、まったくの白兵戦だったと言われている。20日未明から邦人4万人を北京・天津に脱出させるため、
 鉄路防衛に兵員が割かれていた。直接ソ連軍や八路軍を食い止めるのは、響兵団の2500人に託されていたのだ。兵団は敵味方入り乱れての乱戦を三日三晩持ちこたえ、すべての攻撃を押し返した。
 あまりの抵抗のすさまじさに、ソ連の機甲師団は戦意喪失して進軍を停止。前線には厭戦(えんせん)気分が蔓延した。日露戦争当時の対日本軍アレルギーがよみがえったかのようだったらしい。その間隙を縫って兵団は逐次撤退し、27日にようやく万里の長城を超えて帰還。長城まで出迎えた後詰めの部隊は、生還した旅団の姿をみて涙にくれたという。邦人居留民は、すでに24日に天津に全員無事脱出していた。
 これには裏があった。国民党政府総統の蒋介石に、根本は後方支援を要請していたのだ。蒋介石は援護を約束した。なにしろ、16倍もの敵を三方から一手に引き受けるのである。たった三日間といっても、ほとんど勝算がない。ましてや、後ろから 首で刺されたのでは万事休すだ。
蒋介石にも思案があったろう。ソ連軍が満州や内蒙古などに居座り、既得権を主張されたのではたまらない。日本軍という敵から、もっとたちの悪い、しかも強大な敵になりかわるだけだ。おまけに骨肉の争いをしている中国共産党軍がこれに便乗している。
 見事、居留民脱出に成功した根本は全軍を撤収、正式に降伏した。同時に謝意を表し、その後は復員作業を担当。北支在住の居留民と、軍属36万人を復員させ、自身は最後の引き上げ船で1946年8月に帰国した。もちろん、ソ連に不法抑留された軍民は別の話である。
 蒋介石は、歴史的評価がいまだに定まらない人物の一人だ。中国はもちろん、台湾でも高齢の本省人の間では怨嗟(おんさ)を以って語られるくらいだ。しかし、根本にとっては居留民を早期に脱出、復員させることができたのは、蒋介石の支援があってのことだと理解していた。その意味では、蒋介石本人がいかなる人物であるにせよ、「大きな借りがある」と認識していたことは間違いない。

 戦後、故郷の福島に戻り、ブラブラしていた昼行灯は、毎日のように釣りに出かけていた。そこに、思いがけず、「借りを返す」機会がやってきた。中国では、蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産軍が全土で内戦に突入していた。蒋介石は敗戦につぐ敗戦で、台湾に脱出する寸前だった。
蒋介石、絶体絶命のピンチだ。一説には、根本自身が直談判して軍事顧問に赴いたとも言われているが、はっきりしたことはよく分からない。ただ、1949年6月のある日、釣りに出かけたまま、根本が密航したという事実だけがある。
 根本は、貿易商・明石元長の奔走で、通訳の吉村是二とともに、漁船で九州から密航した。
10月、苦難の末、台湾に上陸。丁度、蒋介石が大陸から追い落とされて、台湾に脱出したころだ。最前線は、福建省の沖合い数キロメートルのところにある、金門島の防衛戦に移行していた。
 蒋介石が、この金門島を失陥すれば、台湾本島は丸裸になる。国民党政権も、風前の灯というところだった。当時誰もが、「これで蒋介石も終わりだ」と思った瞬間である。根本は、ただちに湯恩伯将軍の第五軍管区司令官顧問となり、中国名「林保源」を称した。
 同じく10月には、北京で中華人民共和国が誕生し、その勢いを駆って、共産軍は金門島経由で、台湾侵攻に打って出た。当初、国民党軍は、敵を上陸地点の水際で撃退する作戦をたてたが、これでは負けると判断した根本が作戦をひっくり返した。根本案はこうだ。あらかじめ住民をまず市街地から非難させ、共産軍に上陸を許し、市街地奥まで引っ張り込む。一方で、海軍の支援を得て、別働隊に海岸線を回りこませ、上陸船を破壊。補給を断つ。市街地に突入した共産軍には、四方八方から十字砲火を浴びせる。
 要するに包囲戦を進言し、これが採択された。共産軍は2万人で押し寄せたが、25日の上陸後、おおむね事態は根本の作戦通りに進行し、27日にはほぼ全滅した。台湾側は、陸海空三軍の合計では4万人だったが、実動部隊は8000人から1万人だったようだ。古寧頭の戦いというこの一戦は、敗戦につぐ敗戦だった国民党軍にとっては、実質的に初の完全勝利だった。人民解放軍としては恥辱的な惨敗だった。翌年には朝鮮戦争が勃発。中国は台湾どころではなくなり、
この間に台湾は自主独立路線に道を開いた。中国の台湾への武力侵攻の機会は、ほぼ消え失せた。
 実は、台湾はこの後も長きにわたり、金門島を巡り中国と砲撃戦を繰り返している。根本以外にも83名に及ぶ旧日本軍人が、1949年から1969年まで顧問として台湾にいた。これを「白団」と呼ぶ。ただ、根本は古寧頭の一戦後、事態の沈静化を見て、居座ることなくさっさと52年には帰国する。当時、吉田茂首相は、国会で「旧軍人が台湾に密航して、戦争に参加している疑い」について問い詰められたが、「そんなことがあるかもしれない」として、言葉を濁した。どうやら、日本政府が一枚噛んでいたらしい。
 その真相は不明である。ただ、この昼行灯、少なくとも「借りは返した」という思いはあったろう。羽田に降り立った根本は、3年前、家を出たときと同じ格好で、釣竿一本を持ってタラップを降りてきた。あたかも「ちょっと、釣りにいってきたよ」といわんばかりだったという。
 根本は、死ぬまで一体台湾で何をしてきたのか、ほとんど語ることはなかった。台湾政府も、長年、旧日本軍人が対中共軍との戦争に参加してきたことは、全面否定していた。が、2009年に行われた古寧頭戦役戦没者慰霊祭で、根本、明石、吉村の遺族らは招請され、式典の最前列に席を与えられた。馬英九総統は、この場で初めて根本ら旧軍人の存在を認め、栄誉を称えた。
 蒋介石は、よほど助っ人の根本に感謝していたのだろう。ここに、景徳鎮の一対の花瓶がある。
エリザベス女王の成婚(1947年)に際して、蒋介石が用意し、英国に贈ったものだ。一対だから、二つで1セットなのだが、実は3セットつくらせていた。もう1セットは日本の皇室へ。
残った1セットは蒋介石が自分の書斎に置いていた。その片方を、根本に持たせたのだ。
 「これは、私だ。あなたを決して忘れない」と、蒋介石は言ったという。その後、遺族の要望で景徳鎮の花瓶は近年台湾に戻ったそうだが、「借りは返したい」根本としては、草葉の陰で「それでいい」とうなずいていることだろう。