
2017/07/05
みなさん、こんにちは。
今まさに春爛漫という感じですね。
桜の満開は過ぎてしまいましたが、これから葉桜となり、野山は新緑で青々としてきます。今年は、桜の開花が例年よりかなり早かったようですが、山々に咲くこぶしや山桜などは豊作というか、例年になくたくさん咲いていて、今でもかなり山がきれいです。
同じ山でも毎年いつも同じように咲くというわけではないみたいで、数年に一度ぐらい揃い踏みのように一斉にそろって一面咲き誇ります。こうした雑木の山を見ると、春は花や新緑を、秋には紅葉を見ることができて、植林された針葉樹の山にない味わいと華やかさがあり、やはり山はこうでなくっちゃという気分になりますね。山の保水や保全の面でも、根を深くはる広葉樹のほうが山のためにはいいということだそうです。
しかし、よくよく考えてみますに、自然界というか植物というのはすごいと思います。春、、時期が来て、三寒四温を繰り返していると、ある日、その緯度の同じ種類の植物が一斉に花が咲いたり、芽が出始めたりし始めます。
誰が号令をかけるわけでもなく、コンピューターがあるわけでもないのに、どの木も揃って花が咲き始めます。そして、少しずつ北へ上がっていきます。
時期や温度をとらえる高性能のセンサーを持っているということでしょうか。今まで当たり前に思って気にもしませんでしたが、どの木にもずれがなく揃って同じ日に同じように咲き始めるというのは、ちょっと不思議な感じがします。
時期がくれば一斉に揃って咲き始めるわけですが、山の木の種類は不揃いでたくさんあったほうが綺麗でおもしろいのかもしれません。不揃いと揃いについて、自然界と人間社会を同じ土俵で語るわけにはいきませんが、今日は、人間社会の教育についての不揃いについてのちょっと前の新聞コラムがありましたので、ご紹介したいと思います。
「集団で技を学ぶには不揃(ふぞろ)いな子がいたほうがいいと思っています。年齢も経歴も性格も育ちもさまざまな子が、たがいを見ながら、自分の道を歩んでいくことができるからです」。
法隆寺最後の宮大工西岡常一の唯一の内弟子を務めた後、「鵤(いかるが)工舎」を設立した小川三夫さんの言葉だ。塩野米松さんが聞き書きした『不揃いの木を組む』(文春文庫)から引いた。
宮大工の世界にとどまらない知恵が詰まっているように思う。
鵤工舎での修業は十年間。長い年月は、隠し事や自分を飾ることは意味がない、と教えてくれる。
修業に耐え抜いた若者には優しさが生まれ、心にはゆとりが出てくるという。
「学校でも器用な子のほうが先生には喜ばれるわけだよ。学校は促成栽培だから、器用なやつほど成績がよくて、いい子なんや」。早く簡単に仕事を済ませる要領の良さは、職人の世界では結局は損をするという。物づくりや職人世界では、「絶対あかんことだ」と小川さんはいう。
法隆寺や薬師寺の塔を内部から見ると、不揃いな材木でつくられ、一本一本が支え合って立っている。
宮大工の世界では「総持ち」という言い方をするそうだ。
今の教育は目に見える成果ばかりを求めていないか。「急いだら人は育たんで。不揃いの中で育つのが一番や」。総持ちの思想からは遠くなったこの社会で、棟梁(とうりょう)の言葉は重く響く。
以上です。
この話を読んでいると、一瞬、器用な子を否定しているようにもとれますが、決してそうではなく、 器用な子も、要領のいい子も不揃いの中の一つであって、生まれつきの能力なら素晴らしい個性だと思います。学校教育の中で、みんな右へならえの個性のない同じ人間を造るような促成栽培的な教育が良くないと言っておられるのだと思います。そして、要領の悪い子、手間のかかる子を除け者にしない、
いろんな個性の子らを、お互い同士認め合うという教育が大事なのだと思います。そうすれば、“いじめ”などという陰湿な問題は起こらないでしょう。
昨年の夏季号でご紹介したように、米国の大学では多様な人材を意図的に集めていて、その中には、障害を持つことも例外でなく、人と違う何かを持つ者に機会を与える、様々な個性をぶつかり合わせて知性を磨くという教育をしているそうです。日本も早く試験一辺倒の教育から、じっくり腰を据えた多様な教育に変わっていってほしいものです。
もうすぐゴールデンウィークを迎えますが、どうか、お仕事にもレジャーにも事故等お気を付けいただきまして、楽しい連休をお過ごし下さい。
